日本文化における中国の漢字の発展と変遷

日本語における中国の漢字の変遷

漢字の簡略化と整理

日本における漢字の簡略化の方法は、中国とだいたい同じであり、おおむね同音の漢字による書きかえ、同義の漢字による書きかえ、草書の楷書化、古字の採用、部首の置きかえと省略、記号の書きかえ、輪郭の保留などに分けられる。

中国漢字

同音の漢字による書きかえ

意味の混同や誤解を招かない前提において、1つ又は複数の同音又は類似音の字を、画数が1画少ない字又は画数が1画多い常用漢字に書きかえる。日本はこの方法を採用し、漢字数を大幅に減らすことで、漢字使用を制限するという目的を達成した。

同義の漢字による書きかえ

他の1つ又は2つ以上の字を、意味が同一又は類似する字に書きかえる。同義の漢字による書きかえは、同音の漢字による書きかえと同様に、書きかえられた字はできるだけ使用せず淘汰し、すでに書きかえた字にある意味が拡大されることで、これも漢字を簡略化し、漢字数を制限する有効な手段である。

草書の楷書化

漢の時代に誕生した中国の草書は、画数や字間がつながっているだけでなく、その形式も極めて簡略化されている。通常、元の字の輪郭を保持しているので、草書体の識別は難しくない。よく知られている草書体の続け書きを別々にすることを、「草書の楷書化」という。

部首の置きかえと省略

中国の簡体字と同様に、日本のこの種類の字の多くは形声文字であり、置きかえる部首の大多数は音符であり、元の字の画数が比較的多い意符や音符を、画数が比較的少ない字に置きかえる。また、字の一辺や一角を省略して簡略化する方法もある。

国字の誕生と変遷

日本古代には文字がなく、中国と往来するようになってから、漢字が伝えられ、自国の文字として使用するようになった。しかし、漢字で日本語を記録する場合、日本語の具体的な要求を完全に表現することはできず、特に日本特有の事物や概念については、適切な漢字で表すことができなかった。古代日本人は漢字を非常に尊重していたので、日本語表現の必要によって、漢字の造字法を利用して、日本民族の特色を有する国字を創り出したのである。国字は奈良時代から使用されるようになり、平安初期の『新撰字鏡』にはすでに400字余りの国字が収録されている。また、『古事記』にも、現在も使用されている日本の国字が見つかっている。

では、国字にはどのような顕著な特徴があるのだろうか。まず、国字は和製漢字であり、日本人が創り出した漢字であるということである。次に、国字は主に『六書』における会意法によって創り出されたということである。最後に、国字は主に訓読みで用いられ、音読みでの使用は極めてわずかであるということである。

日本文化における漢字の変化に富んだ発展

古代(奈良・平安時代)

漢字を日本に伝えたのは、正統な中国人でなかったため、訓読みを前提とする音声表記方法では、中国語の語順では次第に合わなくなり、日本語特有の語順が生まれた。日本漢字(国字)

近代(明治時代)

『万葉集』の頃になると、漢字使用にかなり精通していた。形状において表意文字と表音文字を区別するために、詔書のように文字の大きさによって区別する以外には、字体を変えるしかなかった。そこで、草書化及び省略化という2つの方法が出現したのである。草書化とは、真仮名の草書をできるだけ簡略化することである。省略化とは、真仮名の一部を取り出して、それを全体とすることである。これこそが、私たちが現在使っている平仮名の由来である。漢字を使用して音声を記録することから仮名の創造までが、歴史的意義を有する日本語の音声表記方法の重大な発展である。漢字が平仮名誕生の基礎となったのは、1つ目に漢字そのものに略字と草書が存在したという内的要因と、2つ目に日本人が漢字の書道や中国文学に精通していたという外的要因があったからであり、それにより平仮名の形成が推し進められたのである。

徳川幕府末期の開港後、西洋文化が次第に日本に入ってきた。外国語に翻訳された各国の名著も日本社会に続々と登場し、和英辞典、英和辞典なども出版された。しかしながら、日本では漢文が依然として権威を持っており、大量の中国語の直訳を駆使した漢文直訳体も流行っていた。しかし、中国語を制限し廃止して、文章をより分かりやすくしようとする学者は、日本語固有の語彙や俗語を依然として大量に使用していた。最も早く漢字制限論を提唱した福沢諭吉は、その著書『西洋旅案内』において、「会社」を「組合」と訳し、「保険」を「清和」と訳している。しかし、このような俗語や古語に基づく翻訳方法は一般的に認められず、翻訳の際にはやはり簡単な説明が厳密な中国語に頼っていた。その後、漢字字典によらず、字面の意味どおりそのまま翻訳して、ぎこちない漢語系語彙をたくさん作って、漢字で外来語を表記するようになった。しかし、西洋の学問が漢字と中国語に次第に取って代わるにつれて、漢字の字体は複雑な上、同音異義語が多くなったため、日本は漢字を捨てて外国語の発音で外来語を直接表記するようになった。

現代(第二次世界大戦後)

1945年8月15日、第二次世界大戦が終結すると、日本社会の価値観もそれに伴い変化し、古いものが次第に淘汰され、人々は新しいものに触れることを切実に求めるようになった。このような風潮の中で、同年11月27日に戦後初の国語審議会が開催された。同会議のテーマは『標準漢字表』の再検討であった。そして、『当用漢字表』と『現代仮名づかい』が現代日本語表記の出発点と言われた。1946年11月16日には1850字の漢字からなる『当用漢字表』が内閣告示され、「表内字」と称された。また、使用における注意事項も明らかにされた。『当用漢字表』にある漢字で書けない場合は、同音の漢字による書きかえ、漢字仮名の交じり文、全て仮名への書きかえ、同一の意味を表す別の言い方への書きかえという方法を用いて表記するものとされた。

漢字の日本文化に対する影響

日本語の外来語は本来片仮名で書かれるべきであり、中国語の語彙も日本人にとって外来語であるものの、今でも依然として漢字で書かれていることは、他の言語ではありえないことである。また、日本人は漢字の構造の特徴を利用して、仮名及び「和製漢字」を創り出した。漢字こそが日本文字の基礎である。日本の文化史を振り返ると、あらゆる歴史文献や文学作品などは、漢字又は漢字と仮名を用いて書かれている。漢字は日本文化の核心であり、日本人一人ひとりの血の中に深く入り込んでいると言うことができる。言語や文字は現代人が過去の人々、ひいては未来の人々と思想を交流させる手段なのである。漢字を廃止するということは、歴史を分断し、未来と断絶することになるのである。しかも、言語・文字と民族の精神、民族の文化とは切っても切れない関係にある。これは1100年の歴史によって蓄積された産物であり、政府又は天皇と同様に条令によって直ちに無くせるものではないのだ。前述した文字改革の結果はこの点について十分に説明している。

結論

日本語と中国語は全く異なる2種類の言語であるが、歴史的な理由によって、中国語と日本語は、解くことのできない深い縁で結ばれている。中国から日本に伝えられた漢字は、日本の文化の中できわめて大きな変化を遂げたのである。

中国の漢字が日本文化に対する影響

漢字には、日本の時代ごとにそれぞれ発達の特徴があった。日本人は、漢字を日本人の生活により浸透させ、日本語の書き方の習慣に合致させるように、たゆまず努力してきた。漢字を簡略化しただけでなく、「当用漢字表」を制定し、日本人特有の国字と第二次世界大戦後に使用されるようになった新字体を発明した。

今日の日本人は漢字を日本民族文化の貴重な財産であると見なしており、日本人が持っている「新しいものを吸収する敏感性」と「古いものを守る忠実さ」という対立する2つの特性を漢字に対応する問題において共存させることで、巧みな統一を達成した。

日本人が行った漢字改革、漢字数の制限、漢字を簡略化した書き方、漢字の読み方の規範化などの措置は、必然的で正しかったが、日本語の漢字を廃止することは、愚かなことであり、実行できなかった。漢字は日本語と密接で不可分な関係であり、漢字は中日文化をつなぐ架け橋でもある。

つまり、日本の歴史を総合的に観察すると、日本の文化と経済の進歩は漢字と密接な関わりがあり、漢字がなかったら、現在のように発達した日本はなかったと言えるだろう。

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